美しい味を語る


第三回目のお相手 鎌倉 円覚寺塔頭佛日庵/高畠瑞峰さん

梅雨中の七月、円覚寺の佛日庵を訪れて高畠瑞峰さんとお会いしてから、この対談を文章としてまとめるまでずいぶんと時間がかかってしまいました。言い訳めいてしまいますが、なかなかまとめることができなかったのは、“美しい味”などと言って浮かれていた自分の浅はかさを見抜かれたことがひとつ。そしてもうひとつは、高畠さんが語る精進料理の素晴らしさを賛美しながらも、心のどこかで『わたしには精進料理だけを食べて生きてはいけない』という矛盾する気持ちがあったからです。精進料理は日本が生んだ世界に誇りうる食であり、日本人に合った食であることも間違いありません。それでも、わたしはこれからも鰻を食べ続けるでしょうし、おいしい焼鳥を焼いてくれるお店を見つけたら暖簾をくぐってしまうでしょう。これは一体なんなんだろうか。わたしはしょせん頭先でしか考えられない人間なんだなぁと。しかし、わたしのこうしたいい加減さはさておき、日本の食が現在抱えているさまざまな問題を考えるとき、その未来は精進料理の持つ精神に向かわざるをえないのではないかと思っています。高畠さんに、また叱られに行きたいものです。

禅の修行と精進料理。

Ganko: 高畠さんは昨年(平成十四年)までここ円覚寺佛日庵のご住職をされていたわけですが、その傍らで、傍らといっては大変失礼かもしれませんが、精進料理の本をお出しになられたり、一般の方に教えられたりもされています。どのようなきっかけで料理の道に入られるようになったのですか?
高 畠: ご質問にお答えする前に、禅寺の修行がどのようなものかご存知かな?
Ganko: あまり詳しくは。座禅を組むとか・・・、そういうことですか。
高 畠: 禅宗の修行僧を雲水といいますが、雲水の修行は座禅だけではありません。畑仕事から托鉢をはじめとして、全部が修行。その中に食事をつくるということも自然と入ってくる。食事係を典座(てんぞ)と言いまして、修行道場では非常に高く評価されています。雲水が修行する上でその命を保つための原動力になるわけですから、大変なことなんですね。
Ganko: ということは、雲水は皆さん精進料理をつくられるわけですね。たまたま出会うわけではないんですね。
高 畠: そうです。ただ、わたしの場合は修行道場に入って一年ほどしてから、御老師の食事の支度をさせていただいたことが大きな経験になりました。
Ganko: 修行道場は、たしか京都の南禅寺でしたね。
高 畠: そうです。雲水の食事ならお粥と梅干しという具合ですから、大きな鍋釜で一度につくればすみますが、御老師の食事は雲水と同じというわけにはいきません。精進料理もある程度、本格的なものをつくることになります。いずれにせよ、わたしにとっての料理とはこうした修行の中で自然に身に付いていったものです。なぜ、どこで、どうして料理の道に入ったかなんていう世間的なそういう頭先で考えたものではないってことですね。
Ganko: 修行に入るまで、料理をされた経験はおありだったのでしょうか。
高 畠: お粥さえまともにつくったことはありませんでした。
Ganko: いきなり食事をつくりなさいと言われて不安になりませんでしたか。
高 畠: ですから、それは一般に考える頭先でしょう。やりもしないで、頭で考える。そんなことをしていたら、はっ倒されますよ。まずやってみろ。やらないで文句を言うな。禅寺の修行というのはすべて実践。実際にやってみることによって、知識を智慧に変えていくところなのです。
Ganko: 俗な質問ですが、失敗なんてこともあったのでしょうね。
高 畠: そりゃ、ありました。典座にきたばかりの頃、生麩(なまふ)をつくり損ねたことがあった。生麩というのは小麦の強力粉を水で溶いて練っていくわけですが、練る時間と寝かせる時間が短かったために固まらずに流れ出しちゃった。捨てようとした瞬間、どなられた。「なんで捨てるんじゃい、生き物を!それも生き物じゃ!」こうしたふうに一つ一つの修業をさしてくれるわけです。その時はクソと思うけれども、あとで考えるとああ良かった殺さずにすんだなと。そこで、いかす心、そういうものを得る。
Ganko: そうやって何度も失敗を繰り返されて。
高 畠: 何度も何度も失敗したら、どやされますよ。一回失敗したらそれを糧にして、今度はちゃんとしたものをつくれ。それしかない。だからやり直しはさせてもらえない。「明日があるさ」なんてのんきなことは言っていられない。

食材を往生させる智慧。

Ganko: また俗っぽい質問で申し訳ありませんが、雲水はどのような食事を召し上がるんですか?
高 畠: 朝は先ほど申し上げたように梅干しとお粥。昼は麦飯と味噌汁と漬物。夜は朝と昼の残りで雑炊。そうやってその日の食材を全部使い切るわけです。
Ganko: 無駄がないんですね。
高 畠: 捨てるってことは殺生したのと同じ。例えば、大きな禅寺には講中(こうじゅう)といって何百人もの信者様をお迎えするときがあります。お迎えした信者様にはまずお茶をお出しするでしょう。一般の家庭だったら、使ったお茶っぱは捨てる。ところが、禅寺ではもう一度入れ直したお茶でお米をといで茶飯にする。その出し殻、まだ捨てないよ。それを炒って今度は食後のほうじ茶として出すわけだ。そして最後にどこに行くかといったら
Ganko: 畑ですか。
高 畠: そう、肥料になる。建長汁(けんちんじる)というのがあるでしょう。
Ganko: ええ。
高 畠: いろんな煮物とか揚げ物の切れ端をとっておいて、油で炒めて、汁にするのが建長汁。これにしたって素材を大切に最後まで使い切るということから生まれている。だからほんとうに修行道場というところはゴミ箱がないところだよね。今日は生ゴミが少ないなんて得意げになっている家庭を見ていると、罰当たりな、むしろ恥ずかしい姿だと思いますよ。
Ganko: 精進料理というのは肉や魚を使わないお寺の料理くらいにしか思っていませんでしたが、ものすごく深いものなんですね。
高 畠: 調味料なんかにしても、一般の料理は狭いね。わたしらは出汁(だし)にしても、大豆や干瓢や椎茸の戻し汁といった普段は捨てちゃうようなものを使っているわけでしょう。ものすごく深くて、広いよ。がんもどきというのは、いろんな料理をつくった後の残り物と、崩れて使い物にならない豆腐をいっしょにしたもの。捨てずに蘇らす。これが往生だよ。ただ往生させるだけでなく、なにかしらの工夫を入れる。残りものだけでがんもどきをつくるのではなく、山芋だとか芹や三つ葉といった旬のものを入れることによっておいしく生まれ返させる。そこに智慧があるわけだ。
Ganko: 往生させる智慧、ですか。まいったなぁ。

六本木ヒルズの食も、ファミレスの食も、どっちも日本。

Ganko: 昭和六十一年から平成六年まで、朝日カルチャーセンターで精進料理の講師をされていますよね。
高 畠: 以前に先輩がやっておられたのを、忙しくなったので代わりにやってくれないかと。気がついたら八年たっていました。
Ganko: 八年ですか。毎回献立を考えるのは、大変ではなかったですか。
高 畠: ほらほら、またそういうふうに頭先で考える。大変じゃなかったかというけれど、やってみないでどうして大変だとわかる。
Ganko: 失礼しました。つい、頭で考えてしまうくせが・・・。それで、どんな先生だったのですか。
高 畠: まあ、ちょっと変わっていたかもしれないね。あとで聞いて驚いたんだけれど、受講生の皆さんは料理の研究家やお店をやっていらっしゃる女性が多かった。そういう女性の皆さんから「先生の料理は、精進料理といってもユニークですね」とか、「精進料理というのはもっと堅苦しいものかと思っていました」とよく言われました。
Ganko: どういうところが?
高 畠: たとえば、食材にグリーンアスパラガスだのヤングコーンだの、伝統的な精進料理からはずれるものを使ったせいかもしれんね。こうした食材は寺では食べなくても、一般の家庭では馴染みの深いものでしょう。わたしがいつも言っているのは、精進料理は家庭料理、お惣菜の原点。そこは時代に合わせ、環境に合わせて考える。
Ganko: これも智慧というわけですね。
高 畠: そうそう大袈裟なものじゃないけどね。皆さんに禅寺と同じにしなさいと強制するわけにはいかないし、身近な食材でつくれなればやっている意味がないでしょう。何事も智慧をはたらかせて、工夫する心、これも精進だからね。あと、調理をするときにわたしが一言もしゃべらないのには、最初みんなびっくりしていたね。
Ganko: え、どうして?話さないとつくり方を説明できないじゃないですか。
高 畠: 食べ物が唾だらけになっちゃうだろう。しゃべらなくても見てもらえればわかる。そうするために工夫する。あとはみんながつくっている時にアドバイスという形でしゃべればいい。だから、いまの料理番組なんかを見ていると、ありゃりゃ汚い番組やってんなっていうだよ。
Ganko: 典座も黙ってやるんですか。
高 畠: そりゃそうですよ。食堂(じきどう)でもお経以外は一言もしゃべらない。みんなに唾引っ掛け回すことになるから。饂飩供養の日だけはちょっと別だけどね。
Ganko: うどんくよう?なんですかそれ?
高 畠: そういう日があるの。普段の食事は音させちゃいけないんだけれど、その時は、音をさしていいわけだ。ひとりでニ、三十束くらいずつ食べるからね。ずるずる、ずるずる。そりゃ、食堂全体が揺らぐほどですよ。ただし、これにもきちんと道理がある。饂飩の元は小麦粉でしょう、だから噛まんでもいいわけ。蕎麦はそうはいかない。
Ganko: なんだかわかったような、わからないような。でも、すごそうですね。

料理ではなく、調理する心。

Ganko: 高畠さんはこれまでの著書の中で、料理とは、調理であるべきだと書かれていますね。
高 畠: そうです。精進料理も料理という言葉も使っていますが、本来食べ物というのは料(はか)ってつくるものではありません。材料を量り、調味料を量り、煮炊きの時間を計って仕上げていく、そういう化学実験のようなものではない。調理とは、調(ととの)え、理(お)さめると書きます。材料を食べ物として食べられるようにつくりかえる、それが調理です。精進料理は、だから材料をととのえるところから始まります。
Ganko: 畑を耕すのも、そういうわけからなんですね。
高 畠: 肥料をつくり、土をととのえ、種を蒔き、手を入れて丹精して作物を育て上げる。いまでも禅寺の調理の修行はそこから始まります。
Ganko: 調理という観点から見て、いまの日本の食はどうですか。高畠さんの目に、日本の食はどう映っているのでしょう。
高 畠: まったくもって、ととのっても、おさまってもいないでしょう。話は少々ずれるかもしらんけれど、漢字というのはうまくできたもので、「食」という字を良く見ると、人という字の下に良いと書かれている。これに品をつければ食品、事をつければ食事、物をつければ食物、いずれにせよ人に良いものなんだね。いまはまったく良いものになっていないでしょう。流行かなんだか知らんが、チューチュー吸うやつね、あんなことしてたらどうなるっていうの。スパイシーだとか、ジューシーだとか、クリ−ミーだとかさ。上っ面だけでよくわからんでしょう。
Ganko: ほんとですよね。どうすればいいんでしょう。
高 畠: とくにいまの子どもたちのために、ひとつ提案があります。これはどなたかも言われていたんですが、カタカナの食をひらがなや漢字にしようじゃないかということです。
Ganko: それは、どういうことですか?
高 畠: パンをご飯に、ラーメンを蕎麦に、スパゲティーを饂飩に、ピザをお好み焼きに、サンドイッチをおにぎりに、ピラフを焼き飯に、スープを味噌汁に、ハンバーグをがんもどきに、ムニエルを焼き魚に、ハムをちくわに、チーズを豆腐に、サラダをお浸しに、ドレッシングを合わせ酢に、ピクルスを糠付けに、ミルクを豆乳に、ケーキをお饅頭に、クッキーを煎餅に、まだまだなんぼでもあるよ。ひらがなや漢字の食べ物が、日本人にはやっぱり合っているんだ。そうすることで体がずいぶんと元に戻る。ほんとの気候風土に合った日本人の身体になるんじゃないだろうか。
Ganko: おもしろい。だけじゃなくて、とってもいいですね。
高 畠: そうだろう。あなたもやってご覧なさい。

人間皆、生かされて、生きている。

Ganko: 先ほどの調理の話は、食べ物をつくるだけでなく、生きていく上でも通じることですね。
高 畠: 本来はすべてにおいてととのえ、おさまっていなければならない。いまはね、すべてが万事、ととのえ、おさまっていないでしょう。いろんなものの切れ端だけで、つなぎ合わせもしないで、その場その場をしのいで生きている。ほんとう、どうなんでしょうね。
Ganko: どうなんでしょう。こちらがお聞きしたいです。
高 畠: それこそ道元禅師が言われている米一粒、水一滴も無駄にするな。その積み重ねのおかげで自分は生かされているんだということにまず目覚めることでしょう。いまはみんな自分で生きてやっているんだと思っちゃってる。そうじゃなくて、人間は、その日、その日を生かされているんだ。だからどんな小さなことでも、ととのえ、おさめていかなければ。明日があるさで伸ばしていったら、ととのえ、おさまっていかないわね。自分は生かされているんだということに目覚めれば、自分を信じること、すなわち自信ができて、自信ができれば勇気が出る。そうすれば自分にゆとりができる。それではじめて人のために何かできるんじゃないかな。新しいものが出ると、あっちへふらふら、こっちへふらふら。中途半端で、それで人の面倒を見るなんて、とんでもないことですよ。考えてごらんなさいよ。振り返れば、お世話になった人ばかり。お世話になったものばかり。昔の人は言ったけれども、ほんとにその通りだよね。
Ganko: うーん、ちょっと異論を唱えてもいいですか。高畠さんのお話は、とてもよくわかりますし、大切なことだと思います。でも現実を見るとき、自分のことを優先させて生きていかなければならなかったり、主婦も忙しかったりで、時間もない。なかなか心を込めて料理をつくれない状況になりつつあります。
高 畠: だからそれは頭先で考えたことでしょう。そういう状況にしているのは誰だっていうの。そういうふうに決め付けちゃうじゃなくて、それじゃまず自分が元に戻そう。試してみよう。そういう気持ちだよね。いま世間ではこういうふうになっているからダメなんだ、思ったらもうダメなんだよ。世間はそうだけれども、そうじゃなくするも自分でしょう。自分しかないよ。まず自分がその見本を示そうというくらいの勢いじゃないと。あなたは自分で調理をしているの?
Ganko: えっ!ときどきは。
高 畠: 日本の美しい味を守る。それはそれで結構だけれど、見せかけだけじゃだめですよ。それに酔いしれていたんじゃ、ほんとの味はわからない。ほんとの味を知るには、見せかけの美しいといわれるものに、深みのある味というかそういうのが果たして同調しているかどうか。ほんとうの美しさはどこにあるが、頭で考えるんでなしに知ることです。それには自分でつくってみること。三度三度の食事をこつこつと積み重ねていくことです。
Ganko: わたしも、一回往生してみた方がいいかもしれませんね

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