美しい味を語る


第六回目のお相手 京都〈草食 なかひがし〉主人/中東久雄さん

中東久雄さん二月、風まだ寒き京都。銀閣寺の参道に佇む〈なかひがし〉の暖簾をくぐりました。カウンターの向こうの中東さんにご挨拶。背筋が自然にすっと伸びる。京都の方はにこやかでいながら、どこかに人品を見抜くような鋭いところがあって緊張します。でも、そんなコリも、中東さんがこしらえてくださる料理を食べていくうちにほどけていきました。そして、いよいよ。〈なかひがし〉のメインディッシュ、ごはんと目刺しがやってきたのでした。お竈(くど)さんで炊かれた、そのごはんを一口食べたとき、私は思わず「あっ」と声を出してしまいました。私が発した驚声は「おいしいー」というのとは少し違っていって、「やっと会えたね」という感覚に近く、ふっくらでつやつやと光を放つ米粒を、私の中にある大和民族の細胞が「懐かしいなぁ」といって受け入れたのでした。
中東さんとの対談は、いまを時めく料理人というより、お百姓さんの応援団長と話しているような気分でした。楽しいお時間をいただき、本当にありがとうございます。最近では、いろんなところにお竈(くど)さんを置いた〈なかひがし〉ふうの食べ物屋さんがたくさんできているようです。「かたちのあるものは、なんぼでも真似できるじゃないですか」と中東さんはおっしゃいました。しかし、その言葉を裏返せば「かたちのないものは、決して真似できない」ということにもなります。かたちのないものとは、無意識の領域に岩梨のようにしがみついている味覚の記憶だったり、山から山野草と一緒に持ち帰ってくる空気だったり、お百姓さんとの他愛のない会話だったりするのでしょう。〈なかひがし〉と数多の食べ物屋・料理屋との間に横たわっているのは、まさにこのかたちのないもののような気がします。世評などどこ吹く風、中東久雄さんは、今日も山に吹く風の中。北山は、いまごろ桜が降るように美しいのでしょうね。

山歩人(さんぽびと)、中東久雄。

Ganko: 対談依頼の電話をさせていただいたとき、おそらく奥様だと思いますが「主人はまだ山から戻っておりません」と言われて、ちょっとびっくりしました。山へは毎日行かれているのですか。
中 東: そうですね。ずーっと前から、もう日課になっていますね。でも、ここへ来てから観察する部分が変わったような気がします。山に住んでいるときは季節の移り変わりというはあたりまえに感じていましたが、こちらに下りてきまして「あれっ」と思うようなことがふえましたね。
Ganko: たとえば。
中 東: 今日の料理でも土筆(つくし)つけてましたけど、十二月ごろにはみなもう芽を出してるわけです。根の浅いのは土から頭だけ出して。“はかま”というのがありますね。
Ganko: 下のギザギザになっているところ?
中 東: あのはかまは、防寒具なんですね。あれが何重にも重なって、胞子の頭を守っているわけです。まわりは朝行ったらもう霜柱が立って、踏んだらバリバリていうようなところに、よう見ると土筆が頭を出している。「なんでこんな慌てて出てくんのや、土ん中にいたらあったかいのに」て思うんですが、神さんに防寒具をもらてますから、出てるわけですね。それで、春の桜が咲く前ころまでずっと待ってる。そう思うと非常に命というものの尊さというか、健気さ、愛おしさを感じます。「ああ、むやみやたらに足で踏み潰してたけれども、注意して歩かなあかんなぁ」というふうに。
Ganko: 最近のお山の様子はどうですか。
中 東: 去年の秋は十月ごろに一回、がーっと冷えたんですわ。それで山の頂上はすごく紅葉がきれいで、ああ今年は紅葉がきれいやなぁと思とったんです。そうしたら十一月になってから、ずーっとあったかくなって。
Ganko: そうですか。
中 東: 春は川から、秋は山から、いいましてね。春は水辺から桜の花がずーっと上がっていって、山のいちばん頂上の桜が咲いて終わり。秋は反対に山からぐーっと紅葉していきます。ところで、紅葉する行為というのはおわかりですか? どうして木々が紅葉するのかということは。
Ganko: いいえ。考えたこと、ありませんでした。
中 東: 植物というのは、十一月ごろから冬になるわけですね。どんどん冷えるに従って、いままで吸い上げていた水が徐々に止まっていきます。ずーっと成長していたのがどんどん止まってしまい、それがいわゆる年輪の冬目になるわけです。
Ganko: 冬目というのは、年輪の目のきついところ? そうやってできるんですか。
中 東: そのときに水を止められるものですから、葉緑素がなくなって、太陽に照らされて赤くなるわけですね。用材でも、その水が消えたときに切ったものだと長持ちするわけです。茶筅(ちゃせん)とか、竹細工なんかはみな十一月から十二月に切ったもんじゃないとだめなんです。
Ganko: 全然知りませんでした。
中 東: でも、枯れたといっても葉っぱが落ちたときには、もう次の世代ができている。
Ganko: 楪(ゆずりは)みたいですね。
中 東: そうです。結局、みんな譲っているわけです。甘草(かんぞ)でも、十月、十一月に枯れますが、枯れた葉っぱの芯のところに必ず次の芽が出ている。ですから大体見つけるときは枯草を見つけます。

中東久雄、おキクおばあちゃんと出会う。

Ganko: 〈なかひがし〉さんといえば、お野菜の料理でも有名です。今日も食べさせていただいてとてもおいしかったのですが、最初から使いこなされていたんですか。
中 東: いいえ。山育ちなもので、山菜は当然知っていたんですが、お野菜はそんなに使いませんでした。きっかけは〈美山のやおや〉っていう八百屋さんです。この近くに、私が店をするちょっと前にできて、美山町から毎週三回、農家で採れたものを集めて売ってたんですよ。そこに行ったらですね、「お、やっぱり来たか」てなことをいわれまして。
Ganko: 読まれていた。
中 東: どうもほかに買いにきてはるお客さんから、私とこのことを「近くでこんな料理屋さんができて」というようなことを聞いてたみたいで、ちょっと癪にさわりました(笑)
Ganko: いまもあるんですか、その八百屋さん。
中 東: ありますが、下鴨の方に移りました。近くに一緒にいるのはかなわんって(笑)。そこに集まってきた中に、八十歳を過ぎたおキクばあちゃんというおばあさんがつくられた野菜があったんですね。「この野菜を食べてみぃ」と。それを食べたらですね、もう、とてもびっくりしました。「おいしいな」という感覚でなしに、もうそのおばあちゃんすべてを食べているような、そんなお野菜なんですよ。香りもあって、とにかくその野菜を食べたら、全部迷わずに身体の隅々まで行き渡るというような、そういうお野菜に出会って、うわーすごいなと。それでまあ、美山に行ってですね。そのおばあちゃんとお会いして、「ね、なんでおばちゃんの野菜はこんなにおいしいの?」て聞いたら、「そーんなもん、知りまっかいな。昔から同じようにやってるだけやがな」
Ganko: 素敵なおばあちゃまですね。会ってみたい。
中 東: そうでしょう。そのおばあちゃん、一人暮らしで、朝起きたら畑へ出て、昼になったらごはん食べに入って、また畑へ出て、夜になったらまた家に入って寝るだけ。もうお野菜とともに生きてはる。子供は町へ出ちゃっていて、野菜が家族みたいなもんです。虫がついた葉っぱを裏返して、一日中でも取ってはったりとか。
Ganko: おばあちゃんの気みたいなものが野菜に入っているから、おいしいんでしょうね。
中 東: そうですね。おキクおばあちゃんのほかにも何軒かお野菜をつくっていらっしゃる人にお会いしましたが、結局、売るためにつくってはるわけじゃなんですよ。町へ出て行った息子や孫のために送った、そのあまりをみんな集めてきてるわけですね。あるおじいちゃんがいわはったのは、「わしら百姓ちゅうのは野菜つくってんのちゃうんや。わしらは土をつくってんのや」と。「いい土をつくったら、それに神さんがいい野菜を与えてくれるんや」と。「あんたら町のもんは、すぐ、これはええやとか、悪いとかいうけれども、こんなもんは神さまから与えられたもんやから、あんたらゆったらあかんのや」と。「できたもんに対して、どうしてつこたらええかということを考えなあかん。つくることを先ず考えてからものを求めたんではあかん」と。「もうおっしゃるとおりです」(笑)そんな人たちとの出会いがありまして、もうこりゃ市場に仕入れに行ってるんではあかんと。

お百姓さんに愛される料理人。

Ganko: 山菜というのは自然のいただきもの、野菜は人がつくります。どうちがうんですか。
中 東: 野菜も元々は山菜であったはずなんですね。それが長い年月をかけて世界中に散らばって、手を変え、品を変え、何千年も繰り返されていまのものになっていると思うんです。農家のみなさんの工夫と土の芸術でしょうね。ところが、ここ何十年間の間に均一化されてしまった。いちばん衝撃的だったのは長野県の清里。
Ganko: 行かれたんですか。
中 東: あの辺りは高原野菜の産地で、ダーっと畑が広がっていますよね。私が行ったときはちょうどレタスを収穫してはって、近づいて見たら機械でカッカッカッ刈り取って、出てきたらラップに包まれて箱にパンパンパンと、後ろにトラックがいて積んでいるわけですね。それ見て、レタスさん、気の毒やなぁと。そりゃ、たしかに人間にしてみたら、採ってすぐに市場に出して消費者に渡っていくっていうのは、非常に新鮮で都合がええかもしれないけど、レタスにしてみたら一晩くらいちょっと休みたいんやないかと。私がレタスやったら、そうして欲しいなと思うんですけれどね。
Ganko: (笑)そうですよねぇ。
中 東: それもみなかたちが一緒でしょ。あれはどうみても食べもんじゃないですよ。工場生産ですよね。専業農家がつくってはるお野菜と、私たちが買っている家庭菜園でおじいちゃんおばあちゃんが手塩にかけて孫や息子のためにつくってはるお野菜とでは、見た目でもう明らかにちがうわけですよ。
Ganko: そんなに違いますか。
中 東: かたや、植木屋さんが刈り取ったんかと思うくらい同じ間隔で同じ太さで生えてる大根。かたや、長いのもあれば短いの、いろいろ虫は食うてますしね。そいで、味比べてみたら、まるで別もののようや。だから、品評会ってよくあるでしょ。はっきり言うて、あんな品評会でおいしいものないですよ。こんな大きい大根より、きゅーっと小さくて身が締まっている大根の方がよほどおいしいですから。ああいう品評会を農政下ですること自体がナンセンスやと思いますよね。
Ganko: 結果として、均一的なものになっていく。ならざるをえないんでしょうね。
中 東: 流通の中で整理する言うても、あんたら整理してばっかりで、味見てんのかって。きちっときれいに同じ長さで並べてですね、整理していくわけでしょ。曲がってんのは、みな落とされて安い値で叩かれるじゃないですか。秋の盛りのころ、キャベツ一箱500円ですよ。10個くらい入っていて、1個50円。その中に運賃から箱代まではいっていて、それもきちっと同じ大きさに揃える手間かけて。お百姓さんをばかにしてますよ、それは。
Ganko: ほんとですよね。
中 東: 消費者はそんなこと考えんと、「こりゃ、安いわ、買おか」いうて黒山の人だかりになる。
Ganko: 消費者も消費者。
中 東: 〈美山のやおや〉でもそうですが、消費者もできるだけ無農薬、減農薬で、自然のものがいいっていわはる。でも土がついているとやっぱりだめだ。虫がついていると「わー、これ、ナメクジいませんか」て。あんた、なにしにここへ来てんの。それやったらスーパーできれいなの買えよって。
Ganko: 農薬を使わないことと、ナメクジが結びつかないんですね。
中 東: そこまで鈍くなってます。ちょっと脱線するかもわかりませんが、息子がイタリアに料理の勉強に行ってるもんで、それにかこつけて年に何回か行ったりするんですが、やっぱりね、日本て異常ですよね。フランスなんかでも、市場に行ったら、おばあちゃんが「私のつくった人参よ」いうて山のようにして売ってるわけですね。みんな土も葉っぱもついてるお野菜ですよ。ヨーロッパの人は、お野菜にしても絶対ナイロンにはつめないですからね。きれいにずらーっと前に並べてね。おしゃれですわ、また。
Ganko: そうそう。ほんとにきれいですよね。
中 東: ラディッシュ置いたりしながら、もう自分の作品として並べてますから。スーパー行ったって、ジャガイモやったら、小さいのから大きいのまでみな一緒にしてるわけですね。それを自分たちで袋に入れてレジに持っていって計り売るというスタイルです。日本なんかスーパーでジャガイモの袋がどれとってもみな5個なら5個入ってますもんねぇ。
Ganko: そうじゃないと売れないみたいですね。
中 東: だめなんですよね。結局、規格外のものはみなはじかれて、捨ててしまう。せっかくみな大地の養分を吸ってるのに。曲がってる言うても、種から伸びていくときに小さな石ころひとつあっただけで、二股に分かれたりしますから。胡瓜にしても曲がってあたりまえなんですよね。
Ganko: まっすぐな方がおかしい。
中 東: そのために選定して、曲がったのが出たらポイしてたら、お百姓さんとしては生活が成り立へんやないですか。あれを全部買って流通に乗せてやれば、お百姓さんの手間もかからない。それにお野菜というのは土を落としてしまったら、そこで命が終わってしまうんです。
Ganko: そうなんですか。
中 東: どんどん鮮度がわるなっていく。蓮根でもそうですが、きれいに洗ってあるでしょ。水にかけたらそこでもう細胞が死んでしまいます。だから、うちは加賀の畑から土なりのものを送ってもらったりしてますけどね。何かがおかしいんですよ。とにかくいちばんばかな目にあっているのは、頑張ってつくったお百姓さん。そんなんじゃ、勤労意欲なくしますよ。
Ganko: 誰がこれから農業をしたいと思うかですよね。
中 東: そうそう、そうです。やっぱり手塩にかけたお野菜は少しでもいい値で買ってあげないと。それだけの手がかかっているわけですから。

〈なかひがし〉の原点。

Ganko: 息子さんがイタリアで修行中ということですが、そのイタリアで誕生したスローフードが日本でも少しずつ浸透してきているように思えます。
中 東: スローフードいうと、なんや新しいことのようやけど、違いますよ。日本ももとはスローフードやったんですよ。京都なんかはまだそういうものが残っている方でしょうね。朝、まだお百姓さんが車で売りにこられますからね。ほんとはその中で、「今日はなにがある?」いうてお百姓さんにいろいろ教えてもらえるといいんですが。
Ganko: 中東さんにも、そういうことはあるんですか。
中 東: あります、あります。さつまいもの時期に畑に行ったらね、青々してるわけですね。「おいしそうな葉っぱやなぁー」て言うてたんですよ。そうしたらおばあちゃんがですね。「昔はこの葉っぱ食べたんやけどなぁー。いまはもう誰も食べへんしなぁ」「えっ、これ食べられんですか」て、早速持って帰って、湯がいて、煮浸しにして食べたら、おいしいんですよ。
Ganko: へー。さつまいもの葉っぱがですか。苦そうですけど。
中 東: とんでもない。いやー、なんとな、こんなもの、どうしていつから食べんようになったか。それから、さつまいもの葉っぱは夏の定番です。お皿にちょこっとつけてお客さんにお出しすると「これ、なんですか」て驚かれます。夏場は、葉っぱはハウスもんしかないですから。「いやー、これ、さつまいもの葉っぱです」「え、さつまいもの葉っぱ、こんなにおいしいんですか」
Ganko: それをおいしいというふうに判断する舌というか、発想がすごい。
中 東: 最近ますます思うんですよ。私の根底には、やはり母親の料理の根本みたいなものがずっと残っているんではないかと。私の実家は美山荘という、元は宿坊でしてね。母がたまにこられる人の賄をつくっていたようなものでした。私が子供の頃、「ちょっと七輪で炙ってけ」というようなことをいわれて、母がどっかそのへんで山菜をちょいちょいとを採ってきてですね、お湯が沸いた頃にそこに入れて茹でてですね、こっちには出しじゃこを入れた鍋があって、そこへちょんちょんちょんて入れて、味付けて、薪で炊いたごはんを添えて、「こんなもんしかないですけど、どうぞ」ちゅうようなことでつくってたわけですよ。おつけもんも、すべて自分でつけて、ごはんも自分とこでつくったお米で炊いて、畑や山にあるものなんかを集めてですね、それでもてなしたというのが、元もとの根本ですから。わたしらそういうところから育ってますから。錦あたりで買ったものでも、魚は別ですけど、野菜に関しては「違うで。これは」と。
Ganko: 何かが違う。
中 東: 思いましたね。いちばん印象に残っているのは、じゃがいもですね。雪が段々消えていちばん植えるんですが、暖かくなってきて、花が咲いて、じゃがいもを掘るときは、母が「よし、今日はジャガイモを掘る」というわけですよね。そのときは学校から帰ってきたら、手伝うわけですよ。じゃがいもを掘るということは、子供心にすごくわくわくするわけです。なんでか言うたら、やっぱり本能でしょうね、これ。人間の生りものへの希望というか、執着というか。
Ganko: なんとなくわかります。
中 東: 手伝ったいうても、大きくておいしそうなものは食べさしてくれないわけです。「これは置いとく」いうて(笑)。こんなちっちゃなものだけを拾って、「これを川で洗ってこい」と。それで竹の笊にいれてゴロゴロゴロゴロすると、採れたてのジャガイモがきれいになるわけです。母がそれをふかしてですね、庭にある山椒、もう六月ですから山椒というより木の芽みたいになっているんですが、それをお味噌でざーっと擦る。山椒の香りがぷーんときて、それをじゃがいもとあえたのが食卓に出てきた。その味がですね、やっぱり、ずっと残っているわけですね。
Ganko: それが中東さんの味覚の定点、みたいな感じなんでしょうね。
中 東: そうですね。あのじゃがいもの味が、自分の中のじゃがいもの味としては最高の味や、という。四角にきちんと切って、きれいに盛ってきたっても、やっぱり違いますからね。料理って、そんなもんやと思うんですよね。
Ganko: 中東さんは、美山荘以外のお店で料理人の修業はされたんですか。
中 東: どこも修業したことありません。たまたまそういう家でやってまして、その中でどんどんいろんなモノが発達して、お竈さんも取り壊してしまった。それから山から町へ出て来ていろいろ試行錯誤やってたんですが、美山のおキクばあちゃんのお野菜をいただいて、それと友達の陶芸家 中川一志郎さんからお竈さんで炊いたごはんを食べさしてもらって、おいしいと思うと同時にはっと気が付きました。その味は、昔の家の味だったんですね。やっぱり自分が育ったその昔の味というのは、自分の細胞なんやろね。

料理人は、つくる人と食べる人の接着剤。

Ganko: いまの子供たちはどうなんでしょう。どこが細胞の元になっているんでしょう。ひょっとするともう家じゃなくなっているかもしれませんね。
中 東: 家じゃないですね。うちへも、時々子供連れたお客さんがきはります。「うちの子は、ほんとに食べないですから」「お料理どうしましょう」「ごはんだけで結構です。おにぎりもちっちゃいの3つもあったら結構ですわ」て。
Ganko: せっかく〈なかひがし〉に来ているのに。
中 東: こちらも、おにぎりだけでは気の毒なんで、最初の八寸にちょこちょこと何かつけて出してあげるんですよ。そしたら、おにぎりを何回もお代わりしてきましてね。「まあ、今日はうちの子、えらいよう食べまして。あんた、どないなってんの。やっぱりおいしいものはよう知ってるわ」とか言うて。
Ganko: まぁ(笑)
中 東: やっぱり、ごはんが違うんですね。それで、子供がここへ来たいからいうて、きはるお客様もいらっしゃいますしね。お野菜も全然食べへんのに、ここのお野菜やったら食べますよとか。
Ganko: 中東さんの腕がいいからじゃありませんか。
中 東: いやぁ。私はずっと前から思っていて、うちの若い子にもいっているんです。料理なんていうのは技でもなんでもなんいだと。大体包丁なんていうものはなんで研ぐかというたら、細胞をいかに壊さないため。いちばん細胞を壊さないようにするにはちぎるのがいちばんいい。そうでなければ丸齧り。茄子でも胡瓜でも丸齧りするのがいちばんおいしいわけですよね。それじゃかたちもなにもできないので、包丁を使うわけですが、最小限食べやすくて、ちょっと目場が良ければいい。私たちはつくっている人たちのものをいただいて料理をしているわけで、ほんとに接着剤みたいなもんで、技もなんにもないわけです。でも、多くの料理人は頭ではわかっていても、やっぱり本見たらきれいに飾ってあるから、こうした方がおいしいかなと思うからしてしまう。だから、大人になってからではもう無理ですね。
Ganko: 無理ですか。
中 東: 三年ほど前でしたでしょうか。オテル・ド・ミクニの三國さんが、キッズシェフの話を新聞で書かれていたのを見ましてね、「私も入れてください」言うて入らしてもらたんですが、官庁や各教育委員会がまだそこまでいたっていない。子供にそういう体験をさすということをカリキュラムに入れていいのかということを、なかなか認めてくれない。やっぱり大人ですよね。
Ganko: 頭で考えてしまう。
中 東: 子供なんて、すごく吸収しやすいですし、大丈夫なんです。本来のものの大切さであったり、ほんとのものの大事さ。食べ物をいただくというのは、やっぱり大事にしたものを食べるということですから。そのあたりをなんとかしないしていかないと、だめだなと思います。

人間は、神さまの設計ミス。

Ganko: そういえば、中東さんの大好きな鯉、大災難でしたね。
中 東: うちで使っていた鯉も、種は霞ヶ浦だったんですよ。全国の鯉の99%は霞ヶ浦の種なんです。私がそこの鯉を知ってから30年以上たつんですが、あの事件が起きて、琵琶湖に流れる水から全部鯉はなくそうということになりまして。20トンいた鯉が全部廃棄処分です。
Ganko: 絶滅ですか。
中 東: そうです。いまは兵庫県から入れてますが、ほんとはもっとおいしいんですよ。ああいう病気が出てくるというのは、半分以上は人災ではないでしょう。鳥も同じですよね。人間でもそうじゃないですか。あんな狭いところにぎっちりつめて、薬漬けにされたら、病気にもなりますよ。業者さんに言わせたら、コイヘルペスなんちゅうのは昔からあんのやと。今回の場合は、過密な状態でほっといたもんだから、一時にどっと死んでしまった。
Ganko: 鯉という魚は一般家庭ではほとんど食べません。それでばっさり切ったという感じもあるんじゃないでしょうか。
中 東: 鯉なんかいなくても、痛くも痒くもないわ、なんておもてはりますからね。きっと。でも、こういう問題がいくらでも起きてきますよ。
Ganko: そんな気がしますね。
中 東: 根本は、歪です。他所の国の言葉でいいたくないんですけど、スローフードに戻さないととんでもない事が起きるんじゃないでしょうか。私はいつも思うんですけど、ほかの動植物、命あるものはみんな土に帰る。帰らないのは人間だけですよ。鳥でもなんでも必ず自然界に還元してるじゃないですか。種を食べたら、それをどっかに持って行ったり。自分の死骸も肥やしにして。人間は出したものをみんな灰にしてるでしょ。人間自身も仕舞いは灰ですからね。
Ganko: 何にもいいことしてないですね。
中 東: 自然を壊すだけで。自然界に貢献していることがなんにもない。
Ganko: でも、お役人さんは「日本はこんなに経済が発展して、みんなが豊かになったじゃないか」と言うんじゃないでしょうか。
中 東: それはなにを語っているのかというたら、あくまでも文明だけなんですよね。一方で、文化というのがあるわけです。人間が生きていく上で、文明と文化が必要だといわれますが、文明いうのは別にいらないわけですよ。欲という回路を入れてしまった神さまの設計ミスですね。ほかの動物でもお腹が膨れたから、獲物が通っても知らん顔してますよね。人間だけですよ。
Ganko: もっと食べたいっていうのは。そうして、この欲には果てがなんですよね。
中 東: 食欲、性欲、金銭欲、征服欲、ほんとうはそこに、抑止力としての良心というものがあるはずなんですよ。その抑止力すらなくなってしまった。うちでアルバイトをしていた地球環境専攻の学生がおもしろいこと、いうとったんですよ。「石油にしろなんにしろ、埋蔵されているものというのは、神さまがこの地球上からいらないもんやと思って埋めたものだと。人間の知恵ではどうすることもできないものだと。
Ganko: それを、欲に負けて、みんな掘り起こしてしまった。
中 東: 完全に神さまの設計ミスですよ。欲と良心とを同じ屋根にすればよかったんですが、欲はもう止めどもなく膨れ上がって良心を押さえきれない。とくに現代は、抑止力がなくなってしまった。
Ganko: 中東さんは、欲と良心をどうやってコントロールされているんですか。これだけお店が話題を集めて、やろうと思えばいろんなことができるじゃないですか。それが一日昼と夜の二回転、支店もなし。
中 東: やっぱり自然を見てますから。自然に教えてもらってますね。マイペースで、これしかできないんやと。毎日山へ行くのは、なにも食材を取りに目を三角にして探し求めて、それをお客さんに出して「どや」というのではないですからね(笑)
Ganko: そうか。山が〈なかひがし〉の抑止力なんですね。
中 東: それでお客さんがきはれへんかったら、これは抑止力にならないけどね(笑)

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